希望というのは、興味深い言葉だと思っています。
イメージ的には満たされたポジティブな言葉ですが。
その実『願い』の性質なので満たされていないネガティブな言葉でもあるんだと思っています。
願いと希望の違いってなんだろう?
と考えた時。
確かに『願い』というイメージは、願う人の頭の中だけに創造されたが、それにすぎない。
過去でも今でも未来でもない、時間の経過に参加していない誰かの頭の中にだけ存在するイメージでしかない。
イメージを人間が感じられるるようにしようと、願いを伝えてみたり、自分でやろうと行動を始めた時、イメージはイメージではなくなり、未来に実現したいための時間経過への参加がされます。
それが小さな希望の光の誕生かなと思っています。
人間はイメージでは満たされない。
人間は結果では満たされない。
人間は希望の光で満たされる。
私はそう感じていますが違うでしょうか?
願いはかなえるように神に要求したりします。
普通叶いませんよね(笑)
希望の光が欲しいなら、自分でやる、やってくれた人から買う。
物質やサービスなら、それで叶います。
『人間は結果ではなく希望の光で満たされる論』
証明を試みます。
昔、田中角栄さんという、高度なコンピュータ制御された人形ブルドーザーがいました。
『日本列島改造論』をかかげ、多くの国民はその『希望の光』に歓喜し、経済的にも物質的にも仕事量的にも日本中が、『希望の光』で満たされていた。
この評価に対する異論は少ないと思います。
日本列島改造の結果は今です。
批判されています。
田中角栄さんの日本列島改造論的なものが求められています。
結果ではなく、『希望の光』が評価されています。
証明してみました。
希望というのは自分ではできない誰かの満たされない心。
その人には、どうなれば希望の光が見えるのか。
自分でやる事が希望なら、自分の満たされない心に、自分の身体で向き合って自主的に希望の光を見出すしかない。自分の希望が自分でやる事なら、人に考えさせてやらせて、結果だけ真似ても意味がないし、やり方を盗む事を隠してやらせれば、本当は希望じゃなくて要求でしたになりますから、詐欺的な迷惑をかけるだけになります。
人間って。
宇宙の全てを自分でなんでもやるって無理ですよね。
役割分担して、やって欲しい事をお互いに求められて、提供しあう。
その希望の光ってという無形の価値はお金で循環させる。
ってのはどうでしょう?
昔はそうでしたよね。
希望の光に対価があって循環していました。
ロッキードから、なんか希望の光を使い捨てにして循環しないようにされちゃった気がするなー
実際人間は。
希望の光を求めているのであって。
結果は求めていない。
結果は未来で、希望の光は今だから。
というお話でした